パキパキ、関係する女•所有する男、れっつくりえいてぃぶ、女の体は誰のもの?、哲学的女

色々なことがパキパキと心苦しいので、ちょっと日記でも書こうと思う。

「心苦しい」というと、ツナ缶ちゃんは不幸せなのか、傷ついているのか、とみんなを心配させてしまうかも知れないけど、大丈夫、私はちゃんといつも幸せです。

とても幸せなんだけど、なんとなく胸に詰まる感じの何かがいつもあって、それについて考えることが私の幸せであり、生きる課題なんだ、たぶん、知らんけど。

❇︎

ここ最近読んだ本の中で面白かったのが、「関係する女、所有する男」というやつ。

女は関係性の中に快楽を見つけ、男は所有することに快楽を見つける。この男女差は、ジェンダー意識を形成する段階が違うことに起因するらしい。

男性は母親と同化している状態→母親は男性ではないことに気が付き、自分が母親にとっての男でありたいという願望→母親には既に父親という男がおり、父親になりたいという願望が、強い男を超え、ありとあらゆるものを所有したいという願望に変わっていく。→所有欲求にたどり着く。

一方、女性の場合、同化している母親と自分は男性ではないことに気が付き、力を持つ男性性に強い憧れを持つ。→しかし男性になることは不可能であるため、男性と関わることでそれを獲得しようとする→関係性の中に安心と快楽を見出す

もっというと、自分が男でない事を克服するために子供を欲するという、哲学的な見方もある

らしい。

この観点から見ると、関係性という、既にあるものからしか快楽を見出せない女は、真にクリエイティブになれないということかしら。

0から1を作り出す力は、やはり男性の方が優れていて、女はそれに劣る?

真にクリエイティブになるには、男になるしかないのか。

❇︎

女の身体というのは、他人との関係性を円滑にするためのツールになりやすく、本人の意思とは関係なく動かされてしまうことも多い。

パッケージは内側か外側か?

だから、女性作家の文学作品には、「体は入れ物」と表現するものが多いそうな。

他人からのイメージという、手垢がたくさんついた外側の自分を、「自分」と認識することは、女にとって難しい。少なくとも私には。

これが女の虚しさと無力感の正体。

自分は入れ物に閉じ込められていてなす術がない、みたいな意識に繋がる。

私は私だけの物なのになぁ。

❇︎

そして、哲学の分野でいうと、女とは何かが解明されていないらしい。

これは女性の哲学者が極めて少ないから。

哲学は、象徴を表すために的確な言葉を選びはめ込んでいく作業のようなもの。

関係性に重きを置く女性は、コミュニケーションに言葉を使うが、哲学に言葉を使わない、らしい。

一方、男は独り言をいう生き物だと。

自分ってなんだ?って疑問を解明するために哲学に触れるのに、ますます意味がわからんくなってくる。

私が読んだ本によると、哲学において男性は「ファルスを持つ者」と定義づけされているらしい。(ファルスとは絶対的な男性性。権力。象徴としてあるのが父親の性器)

これを踏まえて、私なりに女性を哲学的に定義づけると、「ファルスに憧れる者」といえるんではないかと。

絶対に手に入らないモノに憧れ、男との関係性の維持という終わりない探求を続け、決してファルスを手に入れられない、欲深い、哀れな生き物。渇望。

でも女もファルスを手に入れる手段はある。思い付いた。でもナイショ。

嫌な女になりたくないの、わたち。

あーあ、お腹すいた

ウーバーイーツでパンケーキたべよ。

世界の終わりと現在進行形の痛み、はしりがき



始まりがあれば全ての物に終わりが来るというけれど、終わりが来なければ人を大切にできない人がほとんどだと思うし、私もその1人。



❇︎



私の好きな哲学者の中島義道さんが

「全ての物事はいずれ終わる。世界さえも、宇宙さえも、行き着くところは終焉だ。それなのになぜ生きねばならぬのか。どんな偉業を成し遂げても、結局世界は終わるのだ」みたいなことを仰っていて


その時は、川上未映子さんの「溶けてしまった雪の美しさはそこにあった。確かにあった。」という言葉を思い出して


溶けても雪が綺麗だったならいいじゃないか。それが生きる意味だものと思ったけど


生きる苦痛が現在進行形で大きければ大きいほど、「苦しみに見合った価値」を求めてしまうから、痛みに値する価値を返してほしい、となって、その行き着く先が無であることに絶望してしまうんだな、と。


世界の存在は大きいようでいて、個人の感性に勝ることはできないし、世界は結局、その人の主観にしか宿らない、世界の終わりと等価交換になる傷みを、現在進行形で抱えている人がたくさんいるんだ。


❇︎


食べ過ぎて胃が痛いです。

お休みなさい。



人間だもの。〜初オリソン収録を終えて〜


「気持ちをいれたら、どんどんどんどん難しい曲になってしまって。でも、こんなにしっかり歌ってもらえて嬉しいです。」


「僕達も本気でいい曲を作ろうとしてるからね。今回の曲は、アニソンの曲としてヒットする、それくらいのクオリティで作ってるから。」



スタジオには、6人くらいの音楽クリエイターさんとディレクターさんがいて、こんなに広いスタジオでのレコーディングも初めてで、マイクの前に立った時は緊張で顔も体もガチガチで、声も思うように出なかった。




❇︎




ボイトレの先生に楽譜を渡して、仮歌を聞いてもらった時


「すごくいい曲だね。1回聞いたらメロディが頭に残る。メロディが頭に残る曲はいい曲だよ。」


って言ってもらった。

私も一度聞いただけで、「この曲はすごくいい曲だ」って感じた。それくらい力がある曲だと思った。



❇︎




みんなも楽しみにしてくれてる。


何より、自分もこの歌をカッコよく歌いたい。

練習もたくさんした。


絶対かっこよく歌ってみせる。




無我夢中で、気がついたら驚くほど大胆な自分がいた。


アーティスト気取りで、大袈裟なことがダサいと思ってしまう私だけど、気がついたら、手も自然と大きく動いてて、脚をぐっと踏み締めて、感情的に歌ってる自分がいた。

今までは、ライブをしていても、こうやって手を動かした方が見え方がカッコいいとか、こう動くべきとか、そういうことでしか体を動かしたことはなかった。


本当に気持ちを入れて歌おうとすると、体って動くんだなぁ、と思った。


アーティストとか、素人とか、ライバーとか、もうそんなことはどうでも良くなってて、ただかっこよく歌いたい、という気持ちだけを持った自分がいた。


今の自分が歌える、1番カッコいい歌を歌ってやる。


こんなこと、今までなかった気がする。



❇︎




「ツナ缶ちゃんはどうして歌を歌ってるの?」



歌いながら、昔、私より遥かに上手いプロのシンガーに言われた言葉を思い出した。


その時は何も言い返せなかった。


でも今日なら言い返せる気がした。




どうして???何のために????


そんなん、好きだからでいいじゃんか。


歌うことに理由っている????




私は、アーティストとか、そういう仰々しい言葉が自分には似合わないと思っていて、外で「うまいね!プロ?」って聞かれても、「いや、ライブ配信で毎日歌ってるだけです。」とだけ答えてきた。



でも、アーティストに強い憧れがあったのは事実。

歌は4年くらい習っているし、歌、真剣にやってるっていってみたい。


でも、自分はまだまだ下手くそだから、アーティストなんて私には似合わないから。そう言って、自分で自分に言い訳してきた。




「ここもっと力強く表現したいのでもう1回やらせてください」、「この声の感じダサいんでもう1回やらせてください」


初対面の人、しかもプロのクリエイターさんが何人もいる中で、こんなにはっきり自分の意見を言えるなんて信じられなかった。




無我夢中で歌っている時間、

幸せでたまらなかった。

生きてるって感じがした。



❇︎



SNSは人に見てもらうため、自分を好きになるためにはじめたはずなのに、たまに自分が、物になってしまったように感じて、「結局自分には何もできないんだ」と、無力感に苛まれることが時々あった。




「美人さんはいいね、何でも許されるんだから」


「ちょっと可愛いからって調子乗ってるんだね」


「でも女の子の幸せってそういうことじゃなくない?」



sns上だけじゃなく、会った人にもこんなことをいわれることが多々ある。


贅沢なこと言ってるのは分かってる。


でも私は人間なんだ。顔とか体とか女とか、そういうことじゃなくて、ちゃんと生きてる。



私だって、私だって、私だって、私だって。



何とか自分を取り繕って生きてる。

大した才能なんて無いし、お前の頑張りなんてまだまだだって言われても仕方ない。


でもちゃんと自分の頭で考えて、心で感じて、生きてる。




生きてるのに、




そう思っても、ヘラヘラ笑ってしまうことが多い。

だって、たぶん、言っても分からないし、私もいい大人だから、色々なことを諦めてきてもいる。


なにより、別に分かられたくもない。


でも家に帰ったらちゃんと虚無感には襲われるのだけど。


私がもっとちゃんとした人間だったら、

頭が良かったら、

影響力があったら、

結局は私が中途半端だから、




私って、何?




❇︎




今日、歌ってる間は

私は確かに人間で、物でも何でもなく、

生きてるんだなと思えた。


アーティスト気取りかもしれないけど

自己満なんだけど

とにかく楽しくて、あの瞬間、私は物じゃないなって思いました


必死に「かっこよさ」と「自分らしさ」を求める1人の人間だった。

上手い歌かは分からない。


幸せだった。



❇︎



歌があがってきて、自分の声を聞いた時

ちょっと恥ずかしかったけど

「ああ、私の声だな」と思って

聴き終わったら、すごい達成感があって

やり切ったな、と感じた


それから、仮歌の人はやっぱ歌、上手いんだなぁと思って、悔しい思いをした笑




私はまだまだ発展途上というか

歌に対する気持ちは、今日新しいものが芽生えたという感じです。



皆んなが送ってくれた初のオリジナルソングで、ツナ缶ちゃんはまた新しいステージにたどり着くことが出来ました。



本当に皆んなのおかげです。

私にこんな素敵な体験をさせてくれて、ありがとう。


そして、こんな素敵な曲を作って下さった、クリエイターさん達にも感謝。



オリソン、絶対かっこいいので、楽しみに待っててね。







おわり。



怖い人、汚れてしまってもお気に入り、人にやさしく、頭痛と耳鳴り

今日は色々と用事をして、どうしてもネイルと歯のホワイトニング、携帯の買い替えに行きたかった

結果的に歯のホワイトニングにしかいけなかった自分の、要領の悪さに愕然としているし、歯のホワイトニングにしか行けなかったのに、恐らく疲労からきているのであろう、頭痛と耳鳴りはちゃんとする。それなりにいい年こいた頭と体を持つワタクシ、そろそろ都会のレディらしく、ドライ&タフな思考力が育ってくれないかしら。ホルモンバランスと自律神経、今日もシーソーゲーム・アンバランス!!!!

本日ホワイトニングを担当してくれた陽気なおじちゃまに、「ツナさんっていいですねぇ」と急に言われたもんだから、大きなお口を開けて、口内という秘密めいた場所を見せた事後ということもあり、口説かれているのかなぁとちょっとドキドキしつつ、何がですかと尋ねてみた。

「いやね、ツナさんって楽しい人じゃないですか。僕ね、最初ツナさんが来た時、ちょっと怖い人かと思いましてね。ほらなんていうか、お綺麗だし身長も高くいらっしゃるからね。でも話してみるとフレンドリーで面白い方だなと。あ、いい意味で」

いい意味で。こんなに万能な言葉があるだろうか。いい意味で、いい意味で、という言葉の響きを噛み締めつつ、私が大人になってから恐らく500回は言われているであろう、「怖い人に見える」関連の言葉について考えてみる。

怖そう、気が強そう、お高くとまっていそう、生意気そう、エトセトラ、エトセトラ。

全部当たっている気もするけれど、これ関連のイメージのせいで、随分と嫌な思いもしてきた。バイト先で年上のお姉様に初日から無視されたり、初対面の男の子に避けられたり。その度に、私の人生のコンセプトは、人にやさしく、なんだぞぉ。私はそんな怖い人、じゃ、ないんだそぉ、ぷんぷん。と叫びたくなる。呪われてるよなぁ、まぁ人は生まれながら、何かしらに呪われているものだ。はっはは。

&@#/&_#/

人にやさしくしたい、せっかく生まれてきたんだから、人間はお互いに愛を分かちあって生きるんだ、そう思う、そうありたい。(昔から血中正義感濃度高め)

でもでも、上手くいかないのぉ。

私の優しさってのはいつもびちょびちょに濡れている雑巾みたいなもんで、ちゃんと絞れていなくて、水が滴り落ちている。びちょびちょ、こんなもので拭かれた相手はたまったもんじゃないだろう。拭いても拭いても拭ききれなくて、目の前に広がるは、さらなる惨状、水浸し。そのうち私は自分のきったねぇびちょびちょ雑巾をええーい、こんなものと投げ出して逃げるのだ

きれいにならなきゃ拭かない方がいいのかにゃ???神様、教えて???ᵕ̩̩ㅅᵕ̩̩ )( ᵕ̩̩ㅅᵕ̩̩ )

まあこのように、私も人を傷つけ、人に傷つけられ、びちょびちょの雑巾で拭いされる惨状というものは世の中に少ないということをしり、多少心の壁がぶ厚くなって、いい感じにドライになったのだった。

これが大人ってやつですかぁ。

ps.おじさんに、今日着ているスエットの襟首が汚い、と笑われました。確かに汚い。ずっと着てるからなぁ。汚くなっちゃったけど大好きなの。大好きなものは、汚くてもずっとずっと大好き。